Original Title 原題 原标题 「エジプト」現地在住・世界史講師が語る深い魅力一度は訪れたい「世界史的絶景の宝庫」
今から5000年くらい前に、ナイル川流域が統一されてできたエジプト王国。古王国→中王国→新王国と3000年弱続き、紀元前の時代に世界の中心をなしました。古代大河文明の一つ、ということで歴史の授業をうっすらと覚えている人もいるでしょう。そんな歴史の登場人物や遺跡を、観光地をめぐるように解説していきます。
大约在距今5000年前,埃及王国统一了尼罗河流域。从旧王国到中王国再到新王国,延续了将近3000年,是公元前时期的世界中心。对历史课仍有深刻印象的人会知道埃及是伟大的古代河流文明之一。本文将围绕埃及历史中的人物、遗址和观光地作一番解说。
エジプト王国の発展と衰退
埃及王国的发展与衰退
古王国の時代はピラミッド時代と言われ、クフ・カフラー(スフィンクスがある)・メンカウラー王の三大ピラミッドはナイルデルタの南端のギザ地区にあります。中王国の時代は、ナイル川中流域のテーベに遷都しました。テーベの都市神アモンは、エジプトの最高神で、全知全能の神とされる太陽神ラーと結合してアモン=ラー神となり、長い間信仰されました。しかし、メソポタミアからやってきたヒクソスに、一時支配されてしまいます。
埃及古王国时代被称为金字塔时代,那时在尼罗河三角洲南端的吉萨地区建立了胡夫、哈夫拉(带狮身人面像)、门卡拉三座大金字塔。中王国时期,首都迁至位于尼罗河中游的底比斯。阿蒙是底比斯的城市之神,是埃及的至高无上的神,它和全知全能的太阳神拉结合,称为阿蒙-拉神,长期以来被人们崇拜。然而,中王国时期的埃及曾经在一段时间里被来自美索不达米亚的喜克索斯人统治过。
ヒクソスを追放して成立した新王国の時代に古代エジプトは絶頂期を迎え、トトメス3世の時にシリアからスーダンまでの最大版図になりました。しかし、アモン=ラーの神官団が強大化して政治に介入するのを排除するために世界初の宗教改革が行われます。アメンホテプ4世です。アトン神を唯一神とし、自らの名前を「イクナートン(アクエンアテン)」と改名、都もテーベからテル=エル=アマルナへ遷都し、権力を国王に集中させます。
在驱逐喜克索斯人后,古埃及人建立的新王国,古埃及迎来了鼎盛时代,到图特摩斯三世时期领土达到最大,从叙利亚到苏丹都纳入新王国的领土内。然而,为了防止阿蒙-拉神职势力过于强大而干涉政治,阿蒙霍特普四世进行了世界上第一次宗教改革。阿蒙霍特普四世将阿顿尊为唯一的神,将自己的名字改为阿肯那顿,将首都从底比斯迁至特尔阿玛纳,并将权力集中在国王手中。
しかし、急激な変革や自然災害などが相まって失敗、彼の死で再びアモン=ラーを中心とする多神教が復活しました。彼の妃がネフェルティティで、後継者になったのがツタンカーメン王です。前13世紀に登場したラムセス2世は強大な王権を復活させ、領土を拡大し、のちに「征服王」とも呼ばれました。シリア遠征でヒッタイト人と戦い、世界史上初の講和条約を結んでいます。これ以降は、衰退してしまいました。
然而,由于急剧的变革和自然灾害,宗教改革失败了,在阿蒙霍特普四世死后,以阿蒙拉为中心的多神教又复兴了。阿蒙霍特普四世的妃子是著名的纳芙蒂蒂,继任者是图坦卡蒙国王。公元前13世纪拉美西斯二世登场,恢复了强大的王权,扩张了领土,被后人称为“征服之王”。他在叙利亚与赫梯人作战,缔结了世界历史上第一个和平条约。拉美西斯二世时候,古埃及逐渐走向衰落。
新王国滅亡後は、オリエント世界を統一したアッシリア、アケメネス朝ペルシアの支配下に入ります。アレクサンドロス大王の没後、プトレマイオス朝が成立し、この王朝の最後の王が、あの有名なクレオパトラ7世です。彼女はローマの将軍カエサルと結婚しましたが、彼の死後はローマと対立。ローマの将軍アントニウスを味方につけましたが、前31年のアクティウムの海戦でローマ軍に敗れて自殺し、プトレマイオス朝は滅亡しました。
新王国灭亡后,埃及先后落入亚述帝国和波斯阿契美尼德帝国的控制之下。亚历山大大帝死后,托勒密王朝在埃及建立。托勒密王朝的最后一位国王就是著名的克利奥帕特拉七世。她嫁给了罗马将军凯撒,但凯撒死后,她与罗马不和。虽然有罗马将军安东尼作为友军,但公元前31年的亚克兴战役中,托勒密王朝的军队被罗马击败,克利奥帕特拉七世自杀,托勒密王朝灭亡。
オスマン帝国の支配下へ
走向奥斯曼帝国支配之下
10世紀半ばに北アフリカから侵攻してきたファーティマ朝がカイロを建設し、そこに世界最古の大学とされるアズハル学院が設立されました。その後、イスラーム文化の中心としてカイロは大繁栄します。
10世纪中叶,法蒂玛王朝从北非入侵埃及,并对开罗进行大规模建设,并在那里建立了号称世界最古老的大学爱资哈尔学院。此后,开罗作为伊斯兰文化中心而蓬勃发展。
12世紀に建国されたアイユーブ朝の建国者サラディンは、十字軍が建国したイェルサレム王国を破り、聖地イェルサレムを奪回しました。これに対して行われた第3回十字軍との戦いでも勝利をおさめたものの、キリスト教の捕虜の返還やキリスト教徒の巡礼を認めるなど、寛容な姿勢を貫いた王として有名です。13世紀にトルコ人奴隷(マムルーク)によって建国されたマムルーク朝では、紅海からアラビア海そしてインド洋にかけて、カーリミー商人によるダウ船交易が栄え、エジプトに富をもたらすも、大航海時代に入りポルトガルがアジアに進出すると、アラビア海の制海権は奪われ、経済的に衰退していきました。
13世纪,突厥人奴隶(马穆鲁克)在埃及建立了马穆鲁克王朝。在从红海到阿拉伯海再到印度洋的海面上,王朝的卡利米商人的独桅帆船行驶贸易蓬勃发展,为埃及带来了财富。但随着大航海时代的到来,葡萄牙进入亚洲,埃及的卡里米商人失去了对阿拉伯海的控制,经济陷入衰退。
植民地化と脱植民地の時代
殖民地化和后殖民地时代
1860年代の綿花価格高騰により、エジプトに経済的な大繁栄がもたらされました。しかし70年代の世界的不況により財政難に陥り、イギリスの保護国となります。脱植民地への歩みと反植民地主義への影響を振り返りましょう。
1860年代,棉花价格的飙升给埃及带来了巨大的经济繁荣。然而,由于19世纪70年代的全球经济衰退,埃及陷入财政困难,沦为英国的保护国。让我们一起回顾非殖民化的历程及其对反殖民主义的影响。
シナイ半島の西端にスエズ運河が開通すると、ますます世界経済におけるエジプトの重要性が増していきました。しかし、1870年代の世界的な不況も相まって財政難に陥ると、エジプト政府は保有するスエズ運河会社の株をイギリスに売却してしまいます、これを機にイギリスによるエジプト進出が始まり、1881年に起きたウラービー運動(反専制・反英)の鎮圧後、イギリスの保護国となりました。
随着西奈半岛西端苏伊士运河的开通,埃及在世界经济中的重要性日益增强。然而,由于1870年代全球经济不景气和埃及国内陷入财政困难,埃及政府将其在苏伊士运河公司的股份出售给英国。英国以此为契机,开始向埃及扩张势力,在1881年成功镇压了乌拉比运动后(反暴政、反英运动),英国把埃及变成自己的保护国。
第一次世界大戦後の1922年に独立に成功しましたが、スエズ運河とスーダンはイギリスとの共同管理となるなど、イギリスの影響が強く残っていました。そうした中、第二次世界大戦後の1952年に自由将校団(ナギブ・ナセルら青年将校)によるエジプト革命が起き、約5000年続いた王政は終焉、“エジプト共和国”が成立しました。
虽然在第一次世界大战后,埃及在1922年成功获得独立,但苏伊士运河和苏丹均由埃及和英国共同管理,英国对埃及的影响仍然巨大。第二次世界大战后的1952年,自由军官团(纳吉布·纳赛尔等年轻军官)发动了埃及革命,结束了大约延续5000年的君主制,建立了埃及共和国。
まもなく大統領となったナセルはアラブ民族主義と社会主義を掲げてソ連に傾倒していきました。こうした中、1956年にアスワン・ハイダム建築融資を米英に拒否されたことで、スエズ運河を国有化し通行税を建築費に充てようとします。こうして始まったのがスエズ戦争(第二次中東戦争)です。結果的にはエジプトを攻めた英仏・イスラエル軍が国連による即時撤退要請を受け入れたことでナセルの名声は高まり、1950年代後半から60年代にかけて第3世界で台頭する反植民地主義に強い影響を与えることとなりました。
很快就成为总统的纳赛尔主张阿拉伯民族主义和社会主义,并开始倒向苏联。在这种情况下,由于美国和英国拒绝资助阿斯旺大坝建设,1956年,埃及试图将苏伊士运河国有化,并用通行税来支付阿斯旺大坝建设费用。就这样,苏伊士战争(第二次中东战争)开始了。结果,进攻埃及的英国、法国和以色列军队接受了联合国立即撤军的要求,纳赛尔的名气高涨的起来,并对20世纪50年代末到20世纪50年代第三世界兴起的反殖民主义产生了强烈影响。
「ピラミッド!」「スフィンクス!」だけにとどまらないエジプト観光地の魅力がおわかりいただけたでしょうか? ぜひ一度、その目で歴史をご覧になってみてください。
您是否知道埃及充满魅力的旅游目的地不仅仅是“金字塔!”和“狮身人面像!”?请您亲自来埃及看看历史。